塗りなおされた白壁と紅葉の対比があまりに綺麗であった。

落ち着いて周りを見渡せば、銀杏の黄色も華やかで、胴回り5〜6メートルはあろうか大杉の立ちはだかる姿は長き歴史を物語る。
お寺の詳しいことを調べようとネットサーフィンしていたら興味をそそられるページに行き着いた。
しょうげんじ 松源寺
スポーツセンター北の中央線陸橋を渡って さらに百五十メートルばかりいくと 工場の看板に 大栄工業松源寺工場の文字を読むことができる 後田のこのあたりに松源寺の名があるのは 手賀野の松源寺がもとここにあったからである。
恵那神社誌に「津島神社寛文三年(一六六三)の棟札に、関山日下小比丘とあるのは手賀野松源寺の開基なりという。松源寺 字東原にあり。山城国葛野郡花園村妙心寺の末寺にして 禅宗臨済派なり 元駒場にあり寛永元年(一六二四)四月此の地に移転せり」とある。
工場の東方の林の中に 寺の存在を物語る五輪塔数基が残っている。
昔の人は肉体を構成するのは 地 水 火 風 空であると考えた。そして地を方形 水を円(球) 火を三角形 風を半円 空を宝珠形に象ったものが、五輪塔である。平安中期より 供養塔 墓標 舎利塔として用いられた。石造が多いが 金属 木 泥などでも作られたとある。この辺に残存するものはすべて石造であり、有力土豪の墓であるという。楯ブレスと国道の間にも五輪が数多くあったが これは高野山の末寺があったためである。刀の折れ 銭 茶碗のかけなども出土していた。中央線敷設の折 この五輪は大方埋立にぶちこんでしまったという。今でも楯ブレスの南の畑の中に多少の五輪が散乱している。
この五輪塔がやがて一枚の板碑に 空風火水地と文字で刻みこまれるようになるのであるが この一つが小石塚鷹見氏の軒に残っている 年号は寛永三年(一六二六)である。
これ以後江戸時代になると戒名を刻みこんだ 将棋の駒の形をした石塔に変化していくのである。
しかしいつの世にも 古い真似をする物好きもいて、泉町大泉寺跡には 江戸末期の年号の入ったものも残されている。
中村から中津川の方へおりる坂に五輪坂があるが、坂の途中に五輪塔があるからである。松源寺の今の本堂が建てられたのは 安政二年である。
当地の地名の由来を解説したホームページ『地名考』なのであるが、地元のことまだまだ知らないことばかりで、又折を見て尋ねてみたいページである。
http://www.csjpn.com/chimei/chimain.html

