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深まる秋の名刹 『松源寺』
 お客様宅への巡回の折、燃えるような紅葉に目を奪われ、携帯カメラでワンショット。
塗りなおされた白壁と紅葉の対比があまりに綺麗であった。

DVC00074.jpg

 落ち着いて周りを見渡せば、銀杏の黄色も華やかで、胴回り5〜6メートルはあろうか大杉の立ちはだかる姿は長き歴史を物語る。

 お寺の詳しいことを調べようとネットサーフィンしていたら興味をそそられるページに行き着いた。

しょうげんじ 松源寺
 スポーツセンター北の中央線陸橋を渡って さらに百五十メートルばかりいくと 工場の看板に 大栄工業松源寺工場の文字を読むことができる 後田のこのあたりに松源寺の名があるのは 手賀野の松源寺がもとここにあったからである。
 恵那神社誌に「津島神社寛文三年(一六六三)の棟札に、関山日下小比丘とあるのは手賀野松源寺の開基なりという。松源寺 字東原にあり。山城国葛野郡花園村妙心寺の末寺にして 禅宗臨済派なり 元駒場にあり寛永元年(一六二四)四月此の地に移転せり」とある。
 工場の東方の林の中に 寺の存在を物語る五輪塔数基が残っている。
 昔の人は肉体を構成するのは 地 水 火 風 空であると考えた。そして地を方形 水を円(球) 火を三角形 風を半円 空を宝珠形に象ったものが、五輪塔である。平安中期より 供養塔 墓標 舎利塔として用いられた。石造が多いが 金属 木 泥などでも作られたとある。この辺に残存するものはすべて石造であり、有力土豪の墓であるという。楯ブレスと国道の間にも五輪が数多くあったが これは高野山の末寺があったためである。刀の折れ 銭 茶碗のかけなども出土していた。中央線敷設の折 この五輪は大方埋立にぶちこんでしまったという。今でも楯ブレスの南の畑の中に多少の五輪が散乱している。
 この五輪塔がやがて一枚の板碑に 空風火水地と文字で刻みこまれるようになるのであるが この一つが小石塚鷹見氏の軒に残っている 年号は寛永三年(一六二六)である。
 これ以後江戸時代になると戒名を刻みこんだ 将棋の駒の形をした石塔に変化していくのである。
 しかしいつの世にも 古い真似をする物好きもいて、泉町大泉寺跡には 江戸末期の年号の入ったものも残されている。
 中村から中津川の方へおりる坂に五輪坂があるが、坂の途中に五輪塔があるからである。松源寺の今の本堂が建てられたのは 安政二年である。



 当地の地名の由来を解説したホームページ『地名考』なのであるが、地元のことまだまだ知らないことばかりで、又折を見て尋ねてみたいページである。

http://www.csjpn.com/chimei/chimain.html


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長尾 浩一

Author:長尾 浩一
お客様の手となり足となり、また豊かな省エネ生活を送っていただけますよう『省エネ家電普及促進フォーラム会員』として,日々情報発信に東奔西走いたしております。
現在、当店は経済産業省資源エネルギー庁の平成20年度省エネ型製品普及推進優良店制度に登録いただくための様々な業務改善に取り組んでいるところです。

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